オリジナルアルバムとしては約2年振り。今現在の日本の音楽シーンで
2年というスパンは長いと言えるが、その長さが瞬間的に凝縮され、今までのキュリアを飲み込みながらもそれらの制作工程で生じた様々な事象を記録したであろう高濃度のレコーディング作品になっている。2年の間には
川島道行(Vo./Gt.)が脳腫瘍を再発し、実はそれが非常に危機迫るものだったことも
中野雅之(Programming/Ba.)が後に
ブログで語っている。2年間の年表を知ることで確かにこの作品における情熱や苦労の断片を想像することができるが、もとよりBBSというバンド自体「音楽に命を削ってきたバンド」だったはず。それが今回のアルバムでは「音楽から命を宿されたバンド」とでも言うべきか、包容力や生命力が埋め込まれていくように、
歌やサウンド1つ1つに温もりが宿されている。どの曲でもそれは顕著だが、冒頭の<
SHINE>における歌とピアノの寄り添い方、そして<
A HUNDRED SUNS>におけるハードなドラマティック性とメロディーの美しさなどはそれらのBBSの進行形を象徴している。しかし、個人的に一番この作品が優れていると思うのは「録音物」、つまりはレコーディングアルバムとしての質の高さだ。楽曲として非常にポップでありながらエッジの効いた編曲がなされているにも関わらず、消費されることに抗わず、むしろ作品として誰かに聴かれ吸収されることに喜びを抱いてるように音が太く鳴っている。消費される摩擦に磨り減ってしまう、非常に脆い音の強度でソフト化されてしまう作品が近年蔓延しているが、今作はそれとは別次元の、BBSという
ニュートラルなポジションに落ち着いている。コンプで圧縮されたことが一目瞭然なモノではなく音の分離や音位、マスタリングにおける最後の1秒まで抜かりがない。なのでポータブルプレイヤーや
iTunesで聴いてもこのアルバムの素晴らしさは伝わりますが、ぜひ1つスペックの高い環境で、かつ爆音で聴いてみてください。
ディランは常に時代を歌う。そして歌い継ぐことでディランが時代となる。今の音楽シーンは日進月歩という熟語では到底言い表せないスピードで更新されている。1週間も経てば今が過去の情報として蓄積され、私たちは日々何かしら過去となったものを忘れていく。だからこそ、時に後ろを振り返り、落としたもの、捨ててしまったものを自覚する事が重要であり、時に取捨選択で捨ててしまっていた情報の中から、次に繋がる発見があるのかもしれない。2014年5月14日、突如
フランク・シナトラの名曲<
Full Moon And Empty Arms(邦題:寂しい私)>のカバー映像をネットにアップしたことが話題となり、後に正式に“ディランの新作”としての情報が世間を賑わせた。
フランク・シナトラのカバーアルバム、というと至ってありきたりだが、これは少々理解が足りない。確かに<
Autumn Leaves(邦題:枯葉)>や<
Some Enchanted Evening(邦題:魅惑の宵)>といった定番もある。しかし、<
Where Are You?>のように少しマニアックな選曲がなされていることからも単にディランがカバーしたかった、という動機で制作された作品ではないことを知っておいてほしい。それにこれは“シナトラのオリジナル”をカバーした作品ではないし(<寂しい私>にしても
ラフマニノフを元にBuddy KayeとTed Mossmanにより1901年に制作され、1945年に
シナトラがカバーしてヒット)、むしろ
アメリカのポピュラーソングにおけるスタンダードだからこそ数多に及ぶアーティストによってカバーし尽された曲ばかりが並んでいる。インタビュー嫌いの彼が今回のアルバムにおいて珍しく作品について語っているが(以下に引用)、その言葉少なくも全てを頷かせるような話にはディランが如何にシナトラを、そして
アメリカンミュージックを愛しているかがよく分かる。2014年の日本ツアーを観た自分としては、こんなにも明瞭にはっきりと言葉を歌うディランに戸惑いすら抱いてしまうが、今回楽器を何も持たずにただ「歌」にのみに精力を注いだというその姿勢は、
“カバー(覆い)を外す”ための作品としてこのアルバムにオリジナル以上の情熱を注いだ、という紛れもない表れだろう。ここに収められた10曲全てがキャピトルスタジオでのライブレコーディングであり、録音されたテープ音源がほぼ何の加工処理されることなく収録されている。ゆえにディランとリスナーの距離はゼロに等しく、彼が常に時代と共にあること意識するまたとない機会でもある。埋没した
アメリカの輝かしい記録を2015年に再び丁寧に展示し、実際聴き込めるようにアレンジされたディランの新作は、例え彼の音楽を知らない人が耳にしても1940~50年頃の
アメリカに出会えるタイムマシンとして機能するはずだ。
www.musicman-net.com
Anomie - Anomie EP(Father/Daughter Records:2/10)
CAPSULE - WAVE RUNNER(unBORDE:2/18)
以下にあるナタリーや『
Sound & Recording Magazine』等でのインタビューで
中田ヤスタカ自身の口から出てくる「EDM」という言葉にはかなり批評性が含まれている。彼が語るからこそ意味を成すフレーズが多く、彼の中では「Electro Dance Music」が悪い、という解釈ではなく、寧ろ「EDM」と略称してカテゴライズしやすくタグを付け始めた音楽関係者(主にコンピレーションCDやそれらを企画したレコード会社等)にこそ負の責任があるのではないか、と述べているように私は捉えている。そしてそんな音楽が産業としてルーティンしている/させられていることへの
マンネリズムこそがここ最近の
CAPSULEの音楽には強く反映されていて、それは
きゃりーや
Perfumeを手掛けるプロデューサー:
中田ヤスタカとは違う、完全に
CAPSULE:
中田ヤスタカとしての好みのみが鋭利なまでに時代を切り刻んでいく過程が盤から想像できてしまう。今作が
CAPSULEの出会いとなるリスナーがいるのであれば、是非前作『
CAPS LOCK』だけは合わせて聴いてほしい。2013年にリリースされた『CAPS~』はその年の象徴ともなった
Daft Punk 『
Random Access Memories』とエフェクティブな面と時代への切り込み方に共鳴性がありながら、キーボードのキーをモチーフに密室感の濃い、いわばデスクトップ上でこそ完成された盤として機能した作品だった。
中田ヤスタカ自身、そこに時代や産業へのアンチテーゼはなく、単純に自身がプロデューサー、クリエイターとして表現していない部分での表現欲にベクトルが向いただけであり、それは今作『WAVE RUNNER』でも変わっていない。といっても<
Dreamin'Boy>や<
White As Snow>を聴いて“いや、EDMじゃん”という人がいたとしてもそれは自由だが、本質として「EDM」ではなく「
CAPSULEとしてのエレクトロミュージックである」ことだけは念を押しておきたい。フロア志向というと必ずや観客やリスナーが踊ることを前提に盛り上がるポイントが作られ、そこに向かってビートもエフェクトも構成されていく。それが「EDM」の”Dance”の部分でのみ特化してしまう今の流れを作ってしまったのだとすれば、前作『CAPS LOCK』の楽曲をライブでは一度もプレイせず、今作を発売前のDJセットなどにて既に回していたことで、より楽曲と観客との関係性をダイレクトなモノとして捉えていく流れを自然に生み出した上でのリリースとなり、すなわちそれは今ではポピュラーであるプロセスを意図せず布石として拾い集めていく、非常に未知数で未来的な行為なのかもしれない、と。そんな個人的な見解は別として、やはりこれは語れるより聴かれるが全ての作品で。以前のインタビューでも言っていたように(
CAPSULE「CAPS LOCK」インタビュー 音楽ナタリー)、やはりポップであることとキャッチーであることの違いをハッキリさせておきながら、
CAPSULEとして音楽シーンとは少しズレた焦点を持って作り込まれている。
きゃりーぱみゅぱみゅ<もんだいガール>と今作が同じ制作者という同一線上で、世間では全く異なる成分として平行に扱われているのは可笑しくもあり愉快でもある。きっとそんなXとY軸の中間にZ軸を設けてしまうような存在である
中田ヤスタカは、やはり非凡な存在であり正攻法を突き通す日本代表として改めて最もノリにのった人である。
Colleen Green - I Want to Grow Up(Hardly Art:2/24)
LAのイメージは人それぞれだと思うけど、個人としては退廃的でマイペース、乾いた気候と立ち止まっては過ぎ去る旅人たちがひしめき合う場所…みたいなとても大雑把な印象がある。今年1月に
Cassie Ramone(ex:
Vivian Girls)との来日
カップリングツアーを行ったばかりの
Colleen Green。その3枚目となるアルバムはそんなLAのイメージを肯定してくれるようでいて、“軽く聴いてもいいけどナメてもらっちゃ困るわよ?”と猫だましでも喰らわすかのように、ローファイでファッショナブルなアルバムだと悟った。それもそのはずで、
ナッシュビルの
スプートニク・
サウンド・スタジオにて約10日間かけて録音された今作は、初めて彼女がバンド
サウンドに傾倒したアグレッシブな作風であり、スタイルとしての
Colleen節はそのままに新鮮な
サウンドエッセンスが随所に見られる。今までリリースされたアルバムでは各楽曲パートをほぼ全て彼女自身が演奏しており、まさに
DIYなプロセスを経てレコーディングされてきた。今回はそんな
DIY精神を継続しながらも、
ナッシュビルが誇るガレージデユオ:
JEFF the Brotherhoodの
Jake Orrall、そして同じく
ナッシュビルで
Diarrhea Planetとしても活躍していた
Casey Weissbuchがバックバンドとして参加しており、ソリッドでラウドなプレイを思う存分聴かせてくれる。<
TV>ではミドルテンポでズッシリ腰を据えたガレージパンクを、続く<
Pay Attention>では歪んだベースノイズと
Colleenのヴォーカルダブが前のめりにドライヴしていく。バンドセッションを軸にレコーディングされたのが音にダイレクトに作用しているのがよく分かるだけに、彼女らしいアンニュイなメロディーの一貫性にも“聴きやすい”という新たな質感がもたらされたように感じる。もっと過剰なまでの出音でバンド
サウンドを作ってもいいかな?と高望みしたくなるが、2015年っぽいとか2015年らしいとか関係なしに、時代も時間も選ばないシームレスなローファイアルバムとしてこういう作品も大事だと思う。
以下では1月に行われた来日ツアーの模様がプライベートな一面も含めて掲載されてます。
fhána - Outside of Melancholy(Lantis:2/4)
好きなアニメや音楽を共通項に、
SNSを通じて交流を重ね現実にバンドやグループとして活動を続ける、という一連の経緯は今では何ら珍しくもない。fhánaもそんな経緯の下で結成されたバンドだが、ではそんなありきたりな経緯を持つバンドが何故こんなにも数多くのアニメタイアップを請け負い、その期待に応えられたのか。答えは簡単だ。それは彼らの音楽に確固たる物語と、それを自由に解釈しうるだけの余白がしっかりあるから。単にポップだ、キャッチーだと言い換えられるだけではない。タイアップに寄り添いながらもそこから距離を置き、自分たちの音楽に触れるであろう音楽リスナーにまでアプローチできるだけの潔さと音色の色彩感覚がこのバンドにはある。シングルである5曲(<
ケセラセラ><
tiny lamp><
divine intervention><
いつかの、いくつかのきみとのせかい><
星屑のインターリュード>)に劣ることのないリード曲<
Outside of Melancholy 〜憂鬱の向こう側〜>を筆頭に、今まで彼らの作品を点でしか捉えていなかった人たちを音楽という線で繋げるように、ラストの<white light>まで絵巻物のような邂逅が続いていく。<
lyrical sentence><
スウィンギングシティ>といった軽快なナンバーには
clammbonのミト(Ba.)がベース参加。
渋谷系を意識したこの2曲では、ストリングスやキーボードといった他のトラックの合間を縫うように顔出す彼のベースがfhánaの音楽をより自由度の高い作品として響かせている。あと彼らの音楽のツボとして各楽曲の構成にも注目しておきたい。シングルではタイアップや耳触りの良さを大切に基本的なメロ/サビの構造を守りながら、先程のミトが参加した2曲ではAメロ→サビのパターンを基調として限定されたフレーズを繰り返すことでの心地良さも見事に使いこなしている。そして詞の面でも“メランコリー”など各楽曲を結ぶキーワードが点在しており、各曲のパラレルな関係性をアルバムのコンセプトに集約させるカギにもなっている。アニメソングだから、と侮っているとこんなにギミックが詰まったアルバムを聴きそびれてしまう原因にもなるし、実際「バンド」としても清々しくて、次世代のバンド形態の象徴を予見する意味でも、fhanaとこの1stアルバムは押さえておくべきでしょう。J-POPの土俵でもアニソンの土俵でも輝ける一等星。
ラブソングはいつの時代にも存在するし、ラブソングがあるからこそ良くも悪くも人は恋や愛に酔いしれ涙できるのだと思う。その題材となる男と女は時代によって形態を変え、手段を変え、聴き手と同化していく。“リプライ”や“既読”なんていう
SNS用語が入り混じる最近のラブソングはまさに2010年代を物語るキーワードである反面、ありきたりでチープな表現ばかりが横行していると感じさせる副作用ももたらした。
indigo la Endは常に愛や恋、男女間の繊細な繋がりを曲にしてきたが、いよいよ今作でそんな副作用に酔いしれるラブソング信者たちのための治療薬とも言えるようなアルバムを完成させた、と言っていい。
aikoや
ユーミンのように些細な情景描写を耳触りの良いメロディーを手に、殺意にすり替わりそうな言葉の鋭利さと温かみを兼ね揃えてギターロックという形式に収まっている。シングルである<
瞳は映らない><
さよならベル>ではしっかりとシングル然としたストレート勝負に打って出ていたが、アルバム収録曲ではポエトリーなインタールード<まなざしの予感>や演奏スキルを活かして混沌とした怠惰な日常に狂いを求めた<
実験前>など、かなりアクの強いトラックがシングルとの対比として強く印象に残る。間違ってはいけないのは
川谷絵音という人が、単に全てを戦略的に考えて作品化しているわけではない、ということ。
ゲスの極み乙女。では明確に引っ掛かりを持たせるためのセルフコン
トロールが行われているが、こちらの方では飛び道具としての言葉やコード展開があったとしても彼のマイノリティな部分が無作為に落とし込まれている。最近のアオハル映画のような青春性ではなく、そこから2つ3つ相関図を引いたような男女が主人公にいるからこそ、微細な心情のやり取りまで感じ取れるのではないか。ゲスよりもある意味攻撃的な本性を隠し持ちながら、温故知新、常に時代と共にあるラブソングを”
indigo la End”という新たな間口で響かせるあたり、音楽と男女はいつまでも切っても切れない関係なのでしょう。
以前の投稿にて<華麗なる逆種>を取り上げたので今回はもう一方の<
ユーモアしちゃうよ>をピックアップ。思えば
SMAPは<オリジナルスマイル>のような活力全開系から<たいせつ>のような日常の風景描写まで、多彩な応援ソングを持ってして時代を激励してきた。そんな彼らの2010年代における代表曲として<Joy!!>を挙げることに異論を挟む人はいないだろう。
赤い公園の
津野米咲が筆を取り、
菅野よう子がハイポップに仕上げた<Joy!!>は、2013年
AKB48<
恋するフォーチュンクッキー>と共に「みんなが踊れる」ことで好転する景気と暗転していく時代をシニカルに繋ぎ合わせた楽曲になった。それから2年、ふと辺りを見回せば妖怪やディズニーも含めて「みんなが踊り歌う」ことの意義が平和に直結しているかのような、意味もなく感じる日常の多幸感こそが私たちを取り巻いている。案の定、<ユーモアしちゃうよ>はそんな日常の些細な瞬間を切り取りながら、
SMAP自らがユーモアの象徴としてこの曲には登場していると思うし、「経済」「株価」といった生活と切っても切れないワードがここでは皮肉のように扱われている。それでも
SMAPが歌うからこそ成立する「現代応援ソング(ラブソング)のスタンダード」の要素はマストに押さえてある一方、イントロのホーンセクションから楽曲全体の軽快さを強調するカッティングまで非常に旧来のポピュラーソングのベターオブベターがも盛り込まれている。それにしてもCサビで中居・木村→香取・草薙・稲垣→全員とまさにココさえキマればOK!という必殺のリレー展開は、いくら展開が分かっていてもグッとくる。テレビ映えも考えてあるかのような、時代も視聴者も振り向かせる一連のプロダクションに天晴れ。
槇原敬之 - Lovable People(Buppu Label:2/11)
最近は「
亀田音楽専門学校」や
マキタスポーツ氏の著書「
すべてのJ-POPはパクリである」などを参考に、ポピュラーソングにおける方程式を理解しながらポップミュージックを楽しむ人も多くいるだろう。名立たるヒットソングに一定の法則があるのは確かで、その法則に用いられる方程式は確かに耳馴染みの良さを促し、ある水準まで楽曲のポピュラリティを保証してくれる。しかし、音楽を続けていく上で“常に新しいもの生み出していく”という行為は、そんな定義付けされたものだけで語れるものではなく、制作者のクリエイティブな欲求を源に数値化や形式化を超えた部分で深みを増し、進化していくものだと思う。
槇原敬之の生み出す音楽と言葉にはヒットの法則のそれと、シンガーソングライター=クリエイターとしてのあくなき制作欲が常に滲み出ている。巡りゆく春に自らの心の形成りを見る<ミタテ>で幕を開け、朝の情報番組のテーマソングである<
Life Goes On〜like nonstop music〜>で日常を切り取るジャパニーズポップスの真骨頂を早々と見る。<君の書く僕の名前>ではベターなラブソングでありながら“名前”という独自の視点で主人公とその相手の微妙な心模様を組み立てている。槇原自身の
ポール・マッカートニー愛が丁寧に表れたカバー曲<
Once Upon A Long Ago>、70年代の大衆音楽であったザ・歌
謡曲をオマージュした<言わせて下さい>などは槇原自身の音楽愛、果ては人間愛に繋がるライフソングとして新たな領域へのチャレンジ精神を感じることができる。そしてシングルとしてもリリースされた<
Fall>を聴けば、もう全ては出揃ったと言ってもいい。ドラマ主題歌として内容ともリンクしながら、タイアップにおける機能性の充実とコマーシャル力をも兼ね揃えた
ナチュラルファンクなナンバーには、これぞ2015年の
槇原敬之!と手を叩かせるだけの圧倒的な才能を感じるはずだ。デビュー25週年を迎えても尚、J-POPにおける男性シンガーソングライターとして絶対的な地位にいながら、驕ることなく、常に一定の歩幅と音階で人々の日常を彩り続けている
槇原敬之。2010年代は世界的に見てもより革新的なアップデートを求められている世の中で、自分が新しいと感じていたことすら焼き増しの1つとしてカウントされてしまう、何とも気難しい流れがサイクルし続けている。
槇原敬之の音楽はそんな世の中の風潮やムーブメントを取り込むでも参照するでもなく、もっと大きな次元でそれらを包み込み、ライフソングとして誰もが耳にする音楽として、2015年の今だからこそ必要不可欠なBGMであることを最後に言っておきたいです。
V.A. - The Next Peak Vol.Ⅰ〜Ⅲ [TwinPeaks Tribute](Retro Promenade:1/20~2/17)
Nico Niquo - Epitaph(Orange Milk Records:2/13)
ネットを発火点に
知名度を上げ、ここ日本において突如としてカリスマ的な存在にすり替わっていくトラックメ
イカー/アーティストがこの2,3年数多くいる。代表的なのは
Arca、
Giant Claw、また
A.G.Cook等が率いる
PC Musicや
Ryan Hemsworth周辺の活発なネットコミュニケーションなども、ここ日本ではすでにポピュラリティを勝ち取ったと言っていいだろう。毎年そんなネット発のカリスマが電子信号を辿って極東に名を知らしめる流れがあるのだとして、2015年初頭からその決定打ともいえる存在/作品がここに取り上げる
Nico Niquo『Epitaph』だ。Giant Craw同様
Orange Milkからリリースされたこの
ネクストジェネレーションなエレクトロミュージックは、Arcaの生み出したビートの融解と破壊的なまでの
セクシャリティをより過去のものとし、Giant Clawが魅せた現代のエフェクティブなミュージック・コンクレートのコラージュ法すら
IDMと定義付けてしまいたくなるようなメランコリーに富んだ作品性がこの『Epitaph』にはある。タイトル通り、点と線と面を信号化するかの如く、徐々に音色が折り重ねっていく<
4D Samba>や、もしや
フジロック体験経験アリ?とついつい探ってみたくなる<
Naeba>など、何かここ日本からのレスポンスを期待しているかのような要素も盛り込まれている。実は日本人?という考えもあるけど、彼(彼女?)の音楽からもう一歩踏み込んで推測する限り、“アジアカルチャーに影響を受けたフランス人(?)”のようなニュアンスが一番当てはまる形容詞かもしれない。今現在でこの他に
Nico Niquoの楽曲を聴くのは難しいが、今年1月にフランスはパリのインディーレーベル
Midnight Special Labのコンピレーションにて<
Virgo Landscapes>を提供している。こちらは
NYP形式でダウンロード可能。
22歳という年齢は誰が見ても立派な大人…確かに成人を超えているし、大学に進学した学生も社会人となり、初々しくも責任ある行動を求められる年齢だ。それでも、成人してから“立派な大人”と括られてしまう窮屈さと焦燥感が沸点に達しやすい時期もちょうど22歳ぐらいではないか。10代だった頃を否定しながら、20代の今が正しいと言い聞かせながら生きていかなければ、今の自分を保ってはいけない。「あるがまま」と「ありのまま」を混同して、外に向けて作る顔すら自分の本音だと、しょうがなく飲みこんでいく。そんな当たり前に気付いているからこそ内に篭っていたいし、一人の居心地の良さを正当化したいのだと思う。それでも、やはり誰かと繋がりたいし、繋がっていたい。むしろ繋がることで10代のあの頃を敬い、20代の今を楽しみたい。片平里菜の新曲<誰もが>は22歳の彼女が歌う未来に向けた決意表明でもあり、雁字搦めになってもがく人の縄をそっと緩めてくれるような曲である。暗く冷たい時間を共に乗り越えてきた“誰かと誰か”のストーリー。そしてまた始まろうとしている“誰かと誰か”のストーリー。 “誰”という他人とも自分とも、単数とも複数とも分からない言葉でも、“誰もが”とすることでこんなにも大きな共通項で繋がって広がっていく。彼女の懐の深さと、多少引っ込み思案でも本質として人を信じているそのやさしさの心に触れているようで、思わず涙ぐんでしまいそうになる。一方<煙たい>は彼女のパーソナルな感覚にフォーカスが当てられた真骨頂ともいうべきフォークチューン。歌われていく言葉すべてが胸に突き刺さるほどキラーワードばかり。若く、それでいて女性的な声の成分が濃い彼女のヴォーカルによって歌われるサビのフレーズ(右手でたばこを吸うなら/せめて空いた手で/髪を撫でて/愛していて/わたしは、煙たいあなたをやめられない)は、もう私自身の名曲たる必要事項すべてをクリアしている。レベッカ<フレンズ>やチャットモンチー<染まるよ>に系譜するような、少女が大人である事実を突きつけられる際に感じる男ならでは背徳感に、自分は一種のフェチズムを抱いているかもしれない。男の煙たさを感じる要素として、この楽曲のバックバンドにはベースに佐藤征史(くるり)、ドラムを玉田豊夢(C.C. KING)、オルガン/ピアノには奥野真哉(SOUL FLOWER UNION)らが参加している。ガチッと固められた演奏というよりは、脱力感と倦怠感を醸し出すようなたどたどしさが歌とリリックの魅力を最大限に引き出している。改めて、男とトムヨークは聴き流すくらいが丁度いいのだと、この曲から教わりました…
片平里菜 OFFICIAL WEB SITE : 【片平里菜「誰もが / 煙たい」official interview #1】
片平里菜 OFFICIAL WEB SITE : 【片平里菜「誰もが / 煙たい」official interview #2】
片平里菜 OFFICIAL WEB SITE : 【片平里菜「誰もが / 煙たい」official interview #3】